「例え、”私”が消えてなくなっていくような気がしても、

それでも、

私は平和を選びたい🌈」

 

・・・今日は、オーラソーマ製品の発送の予定が4件あって

朝から、感謝の気持ちで発送用のレターパックや専用資材を購入して回って、

家にたどり着いたとき

ふと、思い浮かんだのはそんな言葉🌈

そしてただいま、卸業者さんからの製品の到着待ちです😊

 

私、昔は「愛」とか「平和」とか「感謝」という言葉が大嫌いで。

 

その言葉自体というよりも、その言葉を日常、用いている人たちが、すごく

嘘くさいような気がして。

 

上っ面の、表面だけの、

愛や、平和や、感謝という言葉を並べて

そんな自分に、酔って、陶酔して、自己満足して、全てを誤魔化している気がして。

 

そういうことに、感じやすい、気付きやすい自分のことも、好きではなくて、

若かりし頃は、学校の先生とかも、

言ってることと、やってることの違いがスケスケに見えすぎて

ほんとーーーーーに、大嫌いで、

この頃から、「何をするかではなく、どうあるかだろ!!」というのは実は、ずっと感じてきた気がする。。苦笑

 

そして、そんな私は、すごーーく嫌な子でもあったので(苦笑)

 

母親のこととかも、

すごく真面目で、清廉潔白、みたいな感じに自分をしているのが、

すごくムカついてて(お母さんホントにごめん😂)

「でもお母さん、口ではいつもこう言ってるけど、やってることは実際こうじゃん」とか、

「本当はこう思ってるくせに」とか、

 

平和とか、愛とか、感謝とか、

そういう自分でありたい母に、わざとつっかかって、

なんていうのかな

「相手の、綺麗(でいたい)な身ぐるみひっぺがす」

「化けの皮を、剥がす」

 

そんなことが、めちゃくちゃ得意だった。

ほんと、怖いし嫌な子😂お母さんほんとにごめん😂

 

そんなもんだから、母や姉からはいつも、

 

「まーちゃんと一緒にいると苦しい」

「まーちゃんといると、一番見たくない自分を見せられて、つらい」

 

と言われたりして

そのことでまた、勝手に傷ついて。

そう言われる原因を作ってるのは誰だよ!なのですが😂

 

今、振り返れば、全身(つまり心)が傷つきすぎて、

家族に対して攻撃するしか、その苦しさから逃れるすべを知らなかったし、

 

人の、

表面的に取り繕おうとしているその奥に

いろんなものが見えてしまう、気づいてしまう

そんな自分が自分でも怖くて、

 

上手くそれを扱うことができなくて、そのエネルギーも能力も持て余して

そんな形で爆発させることしかできなかったのかな、と。

 

そして、大人になって、社会に出ていくようになってからは、”その自分”を

人と、円滑に、無難に、そこそこに、

やり取りして、お付き合いしていく上で、

この”自分の中に確かにあるもの”が

 

邪魔で、汚いものに感じて

なので、徹底的に、隠して、蓋をして、

 

それから十年近くが経って、いわゆる”大人”になった時

どこからどう見ても、全然、全てが一つも上手くいっていない(と感じられる)自分の人生を目の当たりにしたとき、

 

自分で自分を愛そう、大切にしよう、と決めて、その時、

その、ずっと邪魔者扱いしてきた「見える(気付ける)」自分をね、

 

ないものとするのではなく、とことん生かしてあげることが、

自分への愛だと思ったんです。

 

そしてそれが、”自分の凸凹を受け入れ、愛すること”だと、

当時の私は、そんなふうに思ったんですよね

 

それが、私の”ありのままの個性を大切にすること”だと、そう思っていたから🌈

 

そしてそこから、その”私なりの凸凹=個性”を、とことん、

ツブして、平らにしようとするのではなくて

生かして、もっと、凸はよりいっそう凸↑に

凹は、よりいっそう凹↓に。

 

そんなことに、ただ、本気で真剣に注いで行ったら、

確かに得たものがたくさんありました。

 

そして何よりも、そのころは、そんなふうに捉えることでしか

自分の生かし方、大切にするしかた(その方法)が、わからなかったから

あの頃、そんなふうに自分なりに”決め”て、その道を突き進んで行ったことは

本当に何の無駄もない、

やり切ってよかったことだと、そう思っているんです

 

けれどそんなプロセスも経て今、私が感じているのは、

 

”私”を、愛して、とても大切に思っている。その上で、

その”私”と思っていたもの、こだわり、それらを

 

全てを、明け渡して生きていくことは、実は

究極の自由なんじゃないかな、って。

 

それはどちらかというと、

冒頭に書いた言葉の通り、

まるで”私だと、それまで思っていたもの”が

消えて、無くなっていくような感覚さえするんです。

 

私と、他者や、世界との間に、どんどん境界線がなくなって

溶け込んで、混じって”私”が見えなくなってゆく感覚。

 

私はね、多分、ずっと”それ”が怖かったから、

”私”を、しっかりと感じて、その輪郭を、しっかりと”持って”生きていないと

”私”が、それこそ消えてなくなってしまうような気がしたから、

これが私なんだーって、

この凸凹が、私なんだー!って

”私”を見失うことがないように、って

そのためにずっと、ぎゅうっと”それ”を、握り締めて

必死で必死で、その自分を生きよう!!と

そうしていたような気がするんです。

 

でも、今は、そうして握り締めなくても、誰かに主張しなくても

その”自分”は、確かに”ずっと在る”と感じられるから。。

 

溶けてもいいな、消えてもいいな、って

自然と、そう思えるようになった。

 

それでね、

溶けないように、消えて、見えなくなってしまわないように、って

必死に握っていなくても

 

赦して、委ねて、明け渡して

溶けて行った先に、それでも残ったものが

”生まれてきた個性そのまま、ありのままの、凸も凹もある私”

なのだなあ、って。

 

私だったら、今朝、

ここのところ毎日、娘が「幼稚園に行きたくない!」が続いていて

朝のインスタライブ後は、毎日大変なことになっているのですが(笑)

 

いつも、夫JOEさんにお願いしていた幼稚園までの送りも最近は

娘を抱っこして、歩いて幼稚園まで送ってゆく

(そして泣き喚きながら、先生に引き渡す😂)

※そのあとは諦めて、16時半のお迎えまで楽しく過ごせてるそうです笑

のですが、今朝は、うっかり

娘の幼稚園のバックの中に

ポイっ!と携帯を、入れっぱなしにして、引き渡してしまって😂

 

慌てて、幼稚園に引き返して主任の先生に取りに行ってもらう💦

(私の顔見ると、娘が泣いちゃうかもしれないから😂)

 

こういう私のおっちょこちょいさはきっと

きっと、溶けても消えてなくならない”凸凹の中の凹”。

 

それを、ただ愛し、受け止めたらよかったんだな、と。

 

何を、私の凸凹として残すか、ということを

愛や、平和や、感謝と言っているよりも、”ずっと、そのほうが人間らしいじゃない”と、

”今の”私の小さな頭で決めて、

固執して、握り締めてしまうのではなくて。

 

愛に、平和に、感謝に溶けていくことをもう、委ねてしまって、

明け渡して、

そうして残るものがあることを、

信頼して受け取ればいい🌈

そしてその、残ったものを、ただ、大切にすればいい。

 

それが、今の私の思う

自分を大切にする生き方。

自分を愛する生き方。

 

そんな気がしています🌈

 

折しも今日は13の月の暦では「白い太陽の世界の橋渡し」の日ですが

白い世界の橋渡しのキーワードの「死」は

そういうことなのかもなあ、と🌈

 

 

「例え、”私”が消えて(死んで)なくなっていくような気がしても、

それでも、

私は平和、愛、感謝を選びたい🌈」

 

そうするとね、むしろ

”私”は、なぜかもっと色濃くなっていき、

”私”を主張しなければ、伝わらない人も確かにいるかもしれない、

気づいてもらえず、離れていく人もいるのかもしれない、でも、そんな中でも、

わかってくれる人は、わかってくれる

気づいてくれる人は、気づいてくれる

そんなふうに、なっていくような気がして

それすら委ねて、明け渡していけたら

きっと、本当にものすごく、自分の内側は、心から自由で、平和でいることができますね💞

 

今日もお読みいただき感謝を込めて😊

素敵な1日をお過ごしください✨

平和のブルーに溶けていく心地よさを、一人一人が自分に、赦してゆけますように🌈