こんにちは、青戸真穂です🌈
ここのところ、コースのクライアントさんたちが、とても順調に、コンスタントにセッションのスケジュールを確保してくださっているおかげさまで、
後半の期間、とっても余裕ができ、
ここのところ、ブログを頻繁に更新することができています😊
(通常、そうはいっても皆さんおいそがしくて、2週間おきというのは難しいのかな?と、余裕をもった期間設定にしているので、
ぴったり2週間おきにセッションが進めていけると、後半、コース終了の期間までいくらかスペースができるんですよね☀)
貴重なお時間を、きちんと確保してくださってセッションさせていただけていること、
改めてとても感謝です😌
さて、我が家では通常、月曜日と木曜日のお昼には、福祉作業所さんのお弁当を届けていただいて、今日もその日でした🌈
いつも、健常者であるスタッフの方が付き添い見守りながら、
通所者さんである障がいのある方が、お弁当を渡してくれ、お支払いの対応をしてくれるんです。
今日の通所者さんははじめての方だったか(見覚えがないのでたぶん)
お金を渡したあと、ゆっくりとお財布にお金を入れていて
健常者のスタッフさんが、「お財布にお金を入れる前に、”ありがとうございました”と言おうね💦」と、わたしを気にして何度も声をかけられるのですが
おそらくその人の中の”順番”や”ペース”があるのかと、
ゆっくりしっかりお財布にお金を入れてピタッと止まった後、
再度、健常者のスタッフさんに促されてようやく最後の最後に、
「ありがとうございました。」とぺこりとお辞儀をしてくださいました。
スタッフさんは、寒いこともあって「(おまたせしてしまって)すみません💦」とわたしのことを気にしてくださるのですが、
わたしも、そういうことも理解した上でお弁当を届けてもらっているので、
「いえいえ、こちらこそいつもありがとうございます」とお伝えして、お弁当を受け取り、ドアを締めました。
ゆっくりでも、効率が、けっして良いとは言えなくても、
”待つことができる”のは、その人が、”障がいのある人”だと知っているから。
でも、本当はわたしたち、みんな一人ひとりが、得意なことも、不得意なことも、違う。
なのに、わたしたちはこと、そういった「障がい」や「病気」という枠がなければ、”みんな”を
「ふつうはこうだ」と「これくらいはできるものだ」と「これくらいは、できるように努力するべきだ」と
相手にも自分にも、
求めるハードルが、要求が、急に高くなるし、それを、当然と思っていて、疑いもしないのかもしれません。
それって本当は実は、すごくおかしくて、変なことなのかもしれない。
その、変な、おかしなことに気づいていないわたしたちの”日常”が、
やっぱり、とても変なのかもしれない。
そんなことを、お弁当を食べながら夫JOEさんに話していたら、JOEさんは隣でいつものように
「そうだねえ」と一言いうだけなんだけれど、
わたしは、でも、この人(JOEさん)はいつも違うって、
改めて思ったんです。
ふつうはとか、がんばるべきとか、これくらいはすべきだよとか、
誰に対しても、一人にもそう思っていない。
そしてそれは、自分自身に対しても。
わたしが今、母親だけれど、娘の幼稚園の送り迎えや、お弁当づくりや、ごはんを作ることをしていなくて、わたしがしていないから、JOEさんが引き受けてくれているのは、
わたしがそのかわりこうして仕事をしているから、夫婦の役割が一般的なものとは逆転しているから、
じゃあないんですよね。
うちは、今現在においては、JOEさんも仕事をしていて、
家計も、ほぼほぼJOEさんの仕事がその中心を支えてくれているし、
そういう意味では世の中で言う”(食べて生きていくための)仕事”も、わたしはしていないし、
だからといって家事をわたしが担うということもしていなくて
そこに関して、俺も大変だからもっとがんばってくれよとか、
周りのお母さんたちはもっと普通こうしてるよ(だからもうちょっと努力しようよ)とか、
言われたことも、空気に出されたことも一度もないのです。
それを、愛されている、というふうに言ってしまうのは簡単かもしれないけれど、どちらかというとそういう感じではなくて
(もちろん愛だとも思うのですが)
それは、上記に書いたような姿勢が夫JOEさんに誰に対してもあるからなのだと思います。
障がいだからとか、病気だからとか、そういう、表現は的確ではないかもしれませんが、後ろだてのようなものがなかったとしても、
「この人はこうなんだ」というのをただ受けとめていて、それでいい、としている。
はじめから、ありのまま、そのままを赦しているのだろうな、受けとめているのだろうな、と思うのです。
そしてそれは、JOEさん自身が、JOEさん自身のありのまま、そのままを赦し、受けとめているからだと思います。
ところが、わたしは長いこと、それが、JOEさんに対してできなかったんですよね。
自分は受けとめて、赦してもらっているのに、わたしはJOEさんにそれができなかった。
それは、もちろんJOEさんに対して甘えている気持ちもあったと思うし、
でも、何よりもわたしがありのままのわたし自身を赦し、受け入れることができなかったからだと思います。
なんだか今日お弁当を食べながらそんな話をしはじめたら、
そのことを、とても謝りたくなったのです。「ずっとごめんね」と。
ずっと、わたしに対しては、”女なんだから”も“彼女なんだから”も、”妻なんだから”も“母親になったんだから”も、
一言も、一度も押し付けずに、ありのままのわたしの凸凹を受け入れて、もし必要があるのならば、できる範囲で補い合おうとしてくれたJOEさん。
それが、一緒に生きていくということだと思って結婚してくれたJOEさん。
でもわたしは長いこと
「男なんだから」
「彼氏なんだから」
結婚してからも「夫なんだから」
娘ができてからは「父親なんだから」。
そういう自分の小さな常識や価値観に、JOEさんを無意識で合わせようとしていて、そういう像を、役割のイメージを求めていて、
ありのままのJOEさんを受け入れて協力しあって生きていこうとする姿勢って、
結局ずっと持てていなかったのだな、と思います。
なんだかそんなものがやっと、手放せたなあ、と思ったら、ごめんねっていう言葉が自然と出てきて、なんならすごく泣けてきて、
それは、ひどいことたくさんしてきてしまったなって思ったし、
そんなわたしでもずっと受け入れて、赦して、一緒に生きてきてくれたことの大きさを、改めて感じたからかもしれません。
きっと夫婦って(わからないけれど)、
どちらかが病気になったり、なんらか障がいを持つようなことがあったら、
相手のありのままを受け入れ支えていこうと思えるのかもしれません。
けれどこと、元気で、それが当たり前で、そんないちばん幸せなときに、その幸せを享受して、ありのままを受け入れあって、支え合って、補い合って生きていけたら、それがいちばんすてきなことなのに、
「だったら、これをやってよ。もっとこうあってよ。」
そんなふうに思いがちなのかもしれない。
お互いが元気で、笑いあえるときから、ありのままを受け入れ合うことができたら、とても幸せだし、
今、それが叶ってとても幸せだなあと思います🌈
そして目に見える部分では、夫JOEさんが動き、支えてくれることばかりですが、
だからといって、わたしがJOEさんを犠牲にしたり、不幸にしているわけではなく、
そんなありのままのわたしが今ここに生きて、いるだけで、たぶん、母として妻としてやれていないことを補って有り余るくらい
JOEさんのことも、幸せにしていて、わたしもまた、わたしのままでいい🌈
自分に対しても今は心からそう思えることは、とても幸せなことだなあ、と思う。
そして、「元気でいてくれさえしたらいい」「笑顔でいてくれさえしたらいい」っていう言葉があると思うけど
それすらも思わないし、思われていないと思うんです。
元気がなくてもいいし、笑顔でないときもあっていいし、泣いたって怒てったっていい。
ただ、生きてくれているだけでありがとう。
更には、今日も隣にいてくれるだけで、それだけで奇跡で、ありがとう🌈
まるで仕事のように
「わたしはこれを担当するから、あなたはそのぶんこれをやってよね」って
この世界を生き抜いていくために、いっしょになったんじゃないものね。
「これくらいやってもらってるから、わたしもこれくらいはやらないと」って
”平等”にするために、いっしょにいるわけじゃないんだものね。
わたしたちは、愛がないのじゃない、
ただ、あまりにもこころに余裕がないことで、
「わたしもこれだけがんばってるんだから、あなたもこうしてよ」とか
「これくらいはがんばって、周りに合わせて、当然でしょ」とか
病気なわけじゃないんだからと。
障がいがあるわけじゃないんだからと。
なら、やって当然、やろうとして当然でしょ、と。
そんなふうに自分にも大切な人にも、世界にも、
思い求めてしまうのかもしれません🍀
(少なくとも、わたしはそうだったかな😌)
一緒に生きるのは、相手を幸せにするためでも、もしくは自分が幸せにしてもらうためでもなく、
ありのままのあなたが生きる人生があって、
ありのままのわたしが生きる人生があって、
それが、それぞれひとつずつでも幸せだけれど、重なったら、もっと豊かで幸せで、人生がおもしろくなるから😊
お弁当を食べながら泣き出したら、なんだかずっとべそべそ泣いちゃって、それは、本当にずっと幸せだったなあということ
それを、心から感じられる自分になったことが、本当に嬉しいなあ、ということ
そこまで待ってもらっていたことに、ありがたいなあ、ということ
(そしていつものごとく、何も言わずにただ隣にいてくれるJOEさん😅)
愛はいつもそこにあったこと
こんなに愛され、見守られていたこと
どんな自分でも、ありのままで。
それはたとえ、パートナーではなくても。親や、家族ではなくても、天から、自分自身から。
そう心から思えたら、自分を赦せるし、人も赦せる。パートナーや、そういう、関係性、人も、後から絶対についてくる。
もっとやさしい温かい世界が広がってゆく🌈
ごめんねって、ありがとうって、本当に魔法の言葉だと思います。
そこには、やっぱり自分から逃げないこと、自分をちゃんと見ること、目をそむけないこと、
そうしなければ、本当のごめんなさいの気持ちも、赦しも(自分自身に対しても)出てこないから
だけどそれはほんとうに、誰にでもできることなんです🌈
わたしも日々、こうして積み重ねているよ😊
改めて、そんなことを、そのよろこびや感動を、
伝播してゆけたらいいな、と思った今日のできごとでした⭐
それでは、今日もお読みいただき感謝を込めて😊
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