勝手に自分を小さく見積もるのも、

勝手に自分を諦めるのも、

いつも自分自身。

 

だけど

自分という唯一無二の奇跡の存在を

世界に届けること、生かしていくこと。

 

その可能性を最初から無いことにして

捨てていくなんて、そんな残念なことはないはずだから。

 

ふと今朝浮かんだ言葉。

 

これまでずっとわたしのクライアントさんというのは何か人生や自分のことに悩んでたり、生きづらさ感じているような方が基本的に多かったのだけど

最近はそれももちろんありつつ

でもコースを受けたりボトルを使ってくれている方たちの中で、世の中に自分を、自分の才能(=ギフト=与えられたもの)を

捧げてくというのかな

捧げてくというと少し大げさに聞こえてしまうかもしれないけど”自分を発揮”していくことで”お返し”してこうとしてる

 

ギフトって与えられたもの、いただきものだから

それは神様かもしれない、何か”全体”からかもしれない、だから

全体からもらったものを全体のために生かしていくことで”お返し”してく。

自分のギフトが何かもわからなくっても、べつにそんなつもり全然ないよって感じでも気づけば結果的にそんな風に生きてる

そんな人たちが

今少しずつ増えていってくれている気がしていて、私自身もそういった方たちに応えられるじぶんでありたいなって

うまくいえないけどステージのようなものが少しシフトしてきていることを感じます。

 

昨日の記事にも書いたコンサルテーションに来てくれたコース中のAさんも学校の保健室の先生で

自分の中に生きづらさしんどさがある、けどそこだけじゃないっていうか彼女の中に

保健室に来る子どもたちの今に未来に

何か少しでも自分ができることしたいしてあげたくて、そのために自分を見つめることや自分の中の何か重いものを手放す必要があると感じて今がんばってて。

 

そしてその”してあげたい”って偽善とかじゃなくてもっと自分の内側から勝手に湧き出て止められないマグマのような温泉の源泉のような

そして人って誰だって、もっと器用にもっと今の社会のフツウとかミンナとか、

そういう風に”上手に”、”器用に”、”うまく泳いで”

そんな風に生きれたらどんなにかいいだろうって

誰だって思うことあると思うんです

 

そこそこに適度に適当にうまく働いてお給与をもらって

そこそこに”ミンナ”と同じように結婚したり家族を持ったり家を買ったり、時には余暇を楽しんだり

そんな人生に満足できる自分だったらどんなにか良かっただろうか?って

 

なのに気づけばどうして自分は”そうじゃないほう”を選んでしまうんだろ?

”そうじゃないほう”、”そうじゃない生き方”に心惹かれてしまうんだろ?って

いつも気づけばそちらのほうに一歩も二歩も踏み出してしまってるんだろ?って

それって前にも紹介したこのときのエルサみたいに。

 

 

保健室の先生のAさんみたいにそれは「誰かのため」ということだけじゃなくてこのときのエルサみたいに

そういう人たちって別に誰かのためにやってるわけじゃないし

自分の才能を発揮してくぞ!とか世の中に返してくぞ!とか思ってやってないと思うけど

結果的にそんなふうになってるというか

 

そしてそういう人たちって傍目から見たら「いいなあ」って見えるのかもしれない

 

好きなことがあって才能みたいな得意なことがあってこれに人生掛けたい(賭けたい)って向かっていける何かがあるってすごく良いなあって

でもたぶん、わかんないけどそういう風に外から見たら「良いなあ」って感じる人達だって

すごくすごく悩んだり葛藤したり迷いながら、それでも自分の心の声を望みをごまかせなくて懸命に進んでるんだろうなって

 

それで食べていけるほどの才能ならそれで生きていけるだけのそれならそれで生きてくのも良いと認められるかもしれない

けれども現実そうではない人もたくさんいて

ならば”そこ”までにはならない”それ”ならば

捨てて”一般的な”人生を生きるべきなんじゃないかって

 

お金稼ぐだけなら生活してくだけなら生きてくだけならもっと割のいい器用な上手な生き方がたくさんたくさんあるはずで

親を安心させてあげるなら結婚とか家庭を持つとかそいう方に目を向けてそちらに努力したほうがいんじゃないかって

まわりの同世代の子達はそんなふうにしてどんどんそちらの道に進んで

良い大人とは、良い社会人とはみたいないろんなものを一つずつ得て進んでる気がするのに

どうして自分はそれでは満たされないのだろう?

って

もし”女性”であるのならばなおのこと

そんな葛藤は実は誰もが通ってきてる道なんじゃないのか。

 

そしてこの場合の満たされないって、不満ということとは違うんだよね

どうしてそれでは、そんな人生ではそんな生き方ではわたしの心はよろこべないんだろう?って

どうしてそんなふうにそこそこに、みんながしてるようにってそれだってささやかな素晴らしい幸せじゃんて

そんなふうには思うことができないんだろって、

でもそれは違うんだよね

不満があるのでも文句があるのでもなく

ただただ自分にとっての本当の深いよろこびとは何なのかを

自分の魂にとってのよろこび、生きる意味を

知ってるから、知ってしまってるから

 

わたしだってそう

世界でいちばん大好きな人と結婚できて本当に世界で一番かわいい(※私基準による)娘を授かって

あんなにわだかまりのあった両親とも姉弟とも今こんなに良い関係になれてて

なんかもうそれでいいじゃん。十分じゃん。

 

子供の笑顔のために生きて、そのために仕事して、そのためにお金を稼いできて、自分の肉体を、自分の時間を、労働することで切り売りして

その時間を”労働”をお金に換えて、それで娘にもう一個も二個も新しいおもちゃ、新しい体験

与えてあげれて最高の笑顔見れたらそれでいいじゃんて

頭ではさんざんそう思うのに

どうしてそれができないのか?

 

どうしてそういう生き方のほうに諦めがつかないのか踏ん切りがつかないのか

どうしてこの仕事をこの生き方をこの発信を続けてるのか

バカなの??わたしは。

 

ぶっちゃけそんなふうに自分に思うことの連続で

 

もっとラクな生き方、もっと流されてうまく泳いで

そんな生き方きっといっぱいあると思う

もちろん、その生き方の中にはその生き方なりのしんどさや葛藤もあるというのもじゅうじゅう承知なのだけど

 

だからそんな今のこの世界の中で

苦しさも葛藤も迷いも伴わないわけがないんだよ

 

けど、

それでも手を伸ばしたいと思うというか気づけばいつも”そちら”に自然と手を伸ばしてる

それは

ほんの一瞬でもそれを感じられたとき、抱えてた迷いとかしんどさとか葛藤とか秒で吹っ飛ぶ

それくらいの強い自分だけのよろこびをもう知ってるから

 

アンパンマンの歌にもあるけどさ

何のために生まれて、何をして生きるのか。

それを、深いとこではもう知ってしまってるんだよね。

だから迷いももうあっても答えは、進む先はもういつも決まってるというか。

 

そんな人の生き様って、その背中って

とても美しいから。

 

どうして美しいんだろ?って

それは諦めないからなんだよね

もう諦めて手放して捨ててしまったほうがラクだって思うけどでもやっぱりずっと諦めてない。

 

今ね、コンサルテーション受けてくれてボトル使ってくれてるある人もまた

この春からあるお仕事でひとつの事業所の所長になったんだよね

でもいろいろほんとに大変な想いしてて。

 

すごく、その会社のたくさんある事業所の中でも働いてる人たちが変に社への反抗精神で有名な所というか

そこで社員が団結してしまってて守らなきゃいけない法律やルールもすごく関わってくる事業なのにちゃんとそれをやらないというか

お互いは「会社なんて現場を何もわかってない」とかやっててお互いはそれで気持ちイんだろうけど

それやりたいなら自分たちで独立してやれやっていうね。

給与もらってて守られてる立場でやることではないというかね。

せめて大義あってそれやってるならガチでちゃんと上に通してそれを”ルール”として採用されるように戦うべきで(なんか話聞いてるとそれすらない薄っぺらさなんだけど)

ガッコの先生に反抗して自分たちに酔ってるガキか?と思う。おまんま食べさせてもらって粋がってんじゃねえと思うわ。最高にカッコ悪い。←だんだん書いてて怒りが湧いてきてる。会社員が悪いとはわたしまったく思わなくて、ただこういうスタンスの人たちって結局心が自立してないからすごく好きじゃないんです

 

それで、その所長になった子が、すごく能力高いなって思うけど前だったらそれをすごく自分で否定しちゃっててね

過去に能力の高さ故に大人がそれを褒めることで同級生に嫉妬されたりいじめみたいなことをされて、どこかで

「自分のパワーを隠すこと、無いことにすること」。

 

そういう処世術を持ってしまうようになったんだって、答えわかってるのに大人たちに褒められるとまた嫉妬されるからテストであえて適当にまちがっておくとか自分を守るために

「自分なんか」ということにしてきたんだと思う。自分の中でも。

 

そうやって自分偽って自分隠して生きてたけど

でも本人もそういうのをもう越えていきたいなって思っててそれがコンサルテーションで選んでたボトルたちにもちゃんと現れてて。

 

だからね、それなりに能力隠しても所長っていう立場に抜擢されちゃって

見せないように隠してたのになぜか見つかっちゃった!みたいな感じになるんだよねそういう人って結果的に絶対ね😅だってそれパワー(ギフト)持ってるからなんだよ

そしたら配属先の事業所がそんな感じで

そしたらまた、ってなるじゃん

「自分なんか」に、戻りたくなるじゃん、そんないきなり出だしそうそうで所内の人みんなが勝手に敵対視してきたら誰だって

誰だって

怖いもの。嫌だもの。

悲しいもの。

 

だけどその子、戦ってるんだよね

戦ってるというのは外側にいる誰か、事業所の人たちに対してじゃなくて

自分と戦ってるの

 

「やっぱり自分なんて」っていうことにしてきた、その自分にもう戻らないで

毎日ちゃんと出社して。

毎日、業務以外のことでは誰も一切口聞いてくれないっていう環境の中にいてそれでも毎日自分のすべき仕事をちゃんとして

そんなふうに、逃げないで静かに戦ってるの。

 

一所懸命、って言葉って、

一生懸命、という書き方もあるし、一所懸命、という書き方もあるけど一所懸命という言葉のほうは

昔、戦争で戦ってる兵士たちが、自分の持ち場(=一所)を、どんなに不利でも負け戦と決まっていても怖くも辛くても

その自分の持ち場=一所から、

決して動かない。

 

そこにとどまって、必死で戦う。

 

そいう言葉の由来があるんだ、って聞いたことがあって

わたしはその時から”一所懸命”という言葉のほうを意識して使うようになりました。なんか誰かのために必死こいて、、みたいなイメージじゃなくてあくまで100%自分のための選択という感じがして、今でもすごく好きな言葉。

 

誤解を招きそうなので書いとくと

そんなおかしな事業所

やめちゃったっていいし、本社に掛け合って所長から下ろしてもらうこともあったっていいと思うんだよね

けど一所懸命ってそういうことじゃない、たぶんその子は会社のためでもない、立場があるからという責任感からでもない

「自分なんて」ということにしてきてしまった自分を越えようとしてて

もうそういう生き方はしない、っていう

その一所に、懸命にとどまってる。

 

だから事業所の人たちのほうが明らかにおかしくても、批判したり見下したりそういう文句愚痴ジャッジみたいのは一切わたしにも言わなくて

ひたすらに静かに自分と戦ってんだなあ、って

それはすごく美しい生き方だと思うから。

 

だからなんかねコースもオーラソーマも。

そういう人のためのそれらでありたいと、

最近すごくそう思うというか、やっと言葉にできるようになってきた感じ、

 

保健室の先生のAさんもね、子どもたちのためのようであってそうじゃない、

自分のために、自分のための自分だけの戦いをしてるんだよね。

 

10年以上の婚活を経て電撃結婚されて会社を辞められたKさんもね

一人で200人以上の社員の年末調整何年もやってて、何度そのシステムの変更、人員の補充を頼んでも会社に相手にしてもらえてなくて

でも淡々と自分のためにその仕事に一所懸命とどまって無事に結婚していざ辞めてもいいとなったときも

いろんな気持ち、怖さ、まわりの目、

葛藤を乗り越えて自分のために退職を決めて、そのときも一切会社の人の悪口とか聞いたことなくって。

それはその人達をよもや見てないというか(笑)

自分の人生に、自分の”生きる”に

本気で真剣だから、なんだよね

 

悪口とか文句言ったりジャッジしてるヒマないよっていう

そういうの自分の内側からでてきちゃったとしてもそれはそれで受け止めて、いやでもそこじゃないよねって

自分に集中するほうにいつも戻ってくるっていうかね

 

そういう自分の人生に一所懸命な人は

本当に美しくて気高いなって

そういう人たち、そうありたいとそちらに手をのばそうとする人たちと、縁をもっと持っていける自分でありたいなと改めて。

それでは今日も良き一日を!

【募集中のメニュー】

加筆修正あり⭐【2023年4月14日更新】募集中のメニュー🌈

https://justmystar.com/official/menu/